キャンプ生活から定住生活へと変わる

 旧石器時代が終わり、縄文時代に入ると、縄文人は定住をするようになりました。
 それまでは、ナウマンゾウやオオツノジカといった大型動物の狩りをして暮らしていたため、季節によって移動をする動物たちを追い自分たちも住む場所を移動する、いわばキャンプ生活をおくっていたと考えられています。
 そこから、移動と定住を繰り返す半定住生活に変わり、さらに縄文時代のはじめには完全な定住生活が始まるのです。
 人々は地面を円形や四角形に掘った中に柱を建て、梁(はり)をつなぎ合わせて骨組みをつくり、その上から葦(あし)などの植物で屋根を葺いた竪穴式(たてあなしき)住居に住むようになりました。
 竪穴式住居には、伏屋式(ふせやしき)と壁立式(かべだちしき)があり、伏屋式が人々の主な住居であるのに対し、壁立式はほとんどが大型の住居に用いられていることから、それぞれの集落の首長が暮らしていたのではないかと推測されます。
 首長とは、現代でいう村長の様な役割を担っていたとされているので、当時の人々の中にも地位の格差はあったのかもしれません。

快適な空間を求めてさまざまな工夫が施される

 竪穴住居は、保温性にすぐれていたことがわかっています。
 深さ1mの穴を掘ると、その地面は一定の温度が保たれるため、夏は涼しく、冬はあたたかな環境であったと想像できます。
 また、住居の中に雨水が流れ込まないように、地面と屋根が接するところには盛り土をしていました。
そのため、住居の入口はすこし高くなっているので、外から住居へ入るときには、すこし上ってから下るという手間がかかりました。
 そして縄文社会の人々は、集団生活をより快適にするための工夫もこらしていたとされています。例えば住居の出入り口は太陽光を取り入れるために南向きが主流と考えられがちですが、実際にはコミュニティを形成するための利便性をとり、集落の通路に沿って出入り口が設けられていたと考えられています。

高度な建築技術もこの時代から存在していた!?

 また堀立柱建物(ほったてばしらたてもの)という、地面に穴を掘らず、礎石も用いず、そのまま柱を立てる建物も作られました。
 三内丸山遺跡の巨大な6本の柱を用いた建物が有名で、柱穴の間隔はすべて正確に4.2m、穴の深さも2mで統一されていることから、想像よりも高度な建築技術をもっていたことがうかがえます。この建物は、床の高さが人の背丈よりも高い位置にあり、入るためには梯子が必要な高床建物(たかゆかたてもの)でもありました。そのため、見張り台や祭壇(さいだん)、灯台として用いられたと考えられています。
 また、当時の人々は海産物を食べるために遠くの海まで漁に出ていたのではないか推察されており、そういったとき自分たちの集落を見失わないように目印としてわざわざ高い建物を建てたのではないかと言われています。
 当時の建築技術を象徴するものとして、35cmを1尺とする『縄文尺』が使用されていたという説もあり、これは様々な縄文遺跡から、35cmの倍数を使用した長さが発見されているためです。

まだ「職人」は存在せず、建設も役割分担で行われていた

 高床建物は、弥生時代に入ると穀物を保管する倉庫としての役割を担うようになります。湿気を避け、ねずみ返しと呼ばれる板を柱に付けることで、食料をねずみから守ったのです。このような食料を守る施設のように、『富』を守るような目的を持った施設などがあったり、道具、住居の種類、争いの痕跡から、当時の人々の中にもリーダーや農民、狩人のように役割分担が行われていたことがうかがえるため、建物を建てることを専門とする人々も存在していたのではないかと思われます。
 もちろん当時はのこぎりのような道具はなかったので、建物を建てる人々は石の斧で木を切り、枝をはらって、皮をはいだのでしょう。
 半定住のキャンプ用の住居であれば、生木を使用してもよいのでしょうが、竪穴住居には数年間は暮らしていたと考えられるため、虫がわかず、変形しない木材が必要なのです。すでに、彼らの中には生木を加工する術を持った人々が存在していたと考えられます。

現代とほとんど変わらない仕口技術!

 弥生時代には、すでに建物が住居としてだけでなく、神殿的な意味合いを持った大型の建物があったとされています。
 遺跡から大型の建物の痕跡が発見されたのはもちろん、土器にも神聖なものとして描かれています。
 そういった建物の場合、柱の大きさから柱と柱を縛ったりするだけではじゅうぶんな強度を保つことができず、柱に開けた「貫(ぬき)穴」に柱を差し込んで組み立てる技術が用いられています。仕口と呼ばれる多様な木材の組み合わせ方は、現代とほとんど変わらないとされていて、弥生時代の後期に鉄製の工具が生まれたことで、細かい加工が可能になりました。

多数存在していた大型建築物

 弥生時代中期には、集落の中央に大型の建物がありその周辺に竪穴住居や高床建物が並んでいたと考えられ、発見される建物数から一つの集落に数百人が生活していたと思われます。
 その大型の建物のなかには、長辺19m以上、短辺7mの巨大な堀立柱建物も発見されています。
 これは棟を支える柱が建物の外側に建つという独特のスタイルで、独立棟持柱建物(どくりつむねもちばしらたてもの)と呼ばれます。
 このような大型の建物は伊勢神宮社殿の神明造のルーツになったとも言われていますが、当時の用途については、権力者の住居、集会所、神殿など様々な説があり未だに決着はつかないようです。