権力を建物の大きさで現し尽くした時代

 古墳時代は、3~7世紀までおよそ400年の間続きました。当時は権力のある人々のお墓として『古墳』がよく作られており、その一つである前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は、北は岩手県の角塚古墳から、南は鹿児島県の花牟礼古墳(はなむれこふん)まで日本全土に渡って作り続けられました。
 7世紀の古墳時代終末期に入ると、前方後円墳は造られなくなりましたが、方墳(ほうふん)、円墳(えんふん)、八角墳(はっかくふん)などは造り続けられていたようです。
 現在でも各地で古墳の遺跡を見ることができます。とくに古代から政治の中心であった奈良県には多数の古墳遺跡が存在しており、天理市の駅前広場に古墳を模した公共施設まで登場しています。

住居内で煮炊きをする「キッチン」の元祖が登場

 また、古墳時代の住居は、弥生時代から引き続き、まだまだ竪穴住居が一般的でした。
 違った部分といえば、掘りくぼめた穴の形が弥生時代の円形から四角に変化したり、古墳時代中ごろには、それまで住居の中央付近に火を焚いた炉があったのに対し、煮炊きをするための「かまど」が壁ぎわに作られるようになったことです。
 福岡県の野黒坂遺跡(のぐろざかいせき)の一辺4.5メートルの四角い穴を掘りこんでつくった竪穴住居では、そのかまどの横に食器がまとめて置かれていました。そのすぐ横には、甕(かめ)と壷(つぼ)がおかれ、さらにその横には棚があったとされ、そこからフタのついた茶碗のような坏(つき)という食器がかたまって見つかっています。坏は須恵器(すえき)、土師器(はじき)などのいろいろな種類がありました。
 かまどを中心に、現代のキッチンと同じようなレイアウトで物が配置されていたことから、昔の人たちも今と同じように生活をデザインしていた事がわかります。
 一方、大きな富や力を持っていた豪族(ごうぞく)の住居はどんどん巨大化し、一辺が数十メートルもある高床の掘立柱建物跡が見つかっています。また、埴輪(はにわ)というと人の形をしたものが有名ですが、古墳時代に作られていた家形埴輪(いえがたはにわ)はとても立派な建物の形をしており、豪族の家屋がモチーフになっていると考えられています。

建築・建設職人の元祖がこの時代に誕生!?

 当時飾りとして使われていた埴輪や生活用品の土器を製作したり、葬儀などの儀式に関する仕事に従事したのが、土師部(はじべ)と呼ばれる人たちでした。
大化の改新以前、特定の技能を持って大和朝廷(やまとちょうてい)に仕えていた技術者集団のことを品部(ともべ)といい、品部の中の技術グループの一つが土師部でした。
 土師氏の始まりは、野見宿禰(のみのすくね)という剛力無双で名を馳せた人物だと言われており、これもまた剛力で有名だった当麻蹶速(たいまのけはや)と力くらべをして勝ったことから相撲の祖としても知られている人物です。また、当時の皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった際に、故人の生前に親しかった人々を一緒に生き埋めにする「殉死」という残酷な風習のかわりに埴輪を埋めるべきだと埴輪を献上したことから、土師職に任じられ、苗字を土師臣(はじのおみ) と改名したといわれています。
 さらに、野見宿禰の「野見」は、木材や石材を加工するときに用いられる工具「ノミ」と関連があるといわれています。土師職は古墳の建造にも関わっていたので、彼らが建築・建設職人の元祖という見方もできるのです。

外からさまざまな技術が伝わり、巨大な造形物が多数建立される

 4世紀の終わり頃から、中国大陸や朝鮮半島から日本へ移り住む渡来人によっていろいろな技術が伝えられました。古墳を造ったり、大きな堀をほるための土木技術もその一つです。
 国の指導者やその一族が葬られる古墳はどんどん大きくなっていき、指導者はその大きさで権力の大きさを示そうと考えました。
 しかしまた、少し後のお話ですが、人々をしっかりと従わせ治める仕組みが渡来人から伝わってくることによって、大きな古墳で権力を示す必要もなくなっていきます。
 そしてこの時代に現れた、指導者とはまた別に地域密着型で地方を支配していた豪族たちは、群馬県の三ツ寺Ⅰ遺跡(みつでらいちいせき)で見つかったような特徴的な住居に住んでいました。
その住居とは一辺が86メートルもある四角の館で、館のまわりには幅30メートル、深さ3~4メートルほどある堀(濠)がめぐらされています。その斜面には石が敷かれ土砂が流出しない作りになっており、さらに濠の内側の居住エリアは何重にも柵で囲われていました。鉄製の道具が導入されたことで、このように大規模な土木工事が可能となったのです。
 また、柵の中の居住エリアには、掘立柱建物と竪穴住居のほかに、広場、井戸、水道橋、石を敷いた祭祀の場所などがあり、後の城郭の姿を垣間見る事ができます。