日本という国名はこの時代からスタートした!

 飛鳥時代は、飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村付近)に宮(都)がおかれていた592年から710年までの118年間を指します。また、646年の大化の改新までを飛鳥時代と呼んで、以後を白鳳(はくほう)時代として区別することもあります。国の呼び方を『倭国(わこく)』から『日本』へ変えたのもこの時代とされています。飛鳥文化は、歴代天皇の中で最初の女帝である推古(すいこ)天皇を頂点とした大和国に花開いた仏教文化です。
 朝鮮半島の百済(くだら)や高句麗(こうくり)から伝えられた中国大陸の南北朝文化の影響を受けたと考えられており、グローバルな文化であったことが特徴です。数多くの大寺院が建立され、仏教文化が最初に栄えた時代といえます。
 日本最古の本格的寺院である飛鳥寺や四天王寺は、氏寺(うじでら)として創建されました。氏寺とは、古墳、とくに前方後円墳に代わって、首長や有力氏族、王族の新たな祭祀儀礼(さいしぎれい)の場としてつくられた仏教寺院です。
 氏寺の建立目的として、一族の繁栄を祈ると同時に病などの治癒を願うという意味もありました。この時代には、のちの奈良時代のように仏教によって国を治めようとする「国家鎮護(ちんご)」を祈願した寺院は存在しなかったようです。

身分の高い人たちの屋敷や寺院は、これまでにない華やかさに

 当時の人々の暮らしはというと、豪族などの身分の高い人々は複雑に柱を組み合わせた大きな建物に住んでいましたが、一般庶民は田畑に近い場所に村をつくり、まだまだ弥生時代と変わらず竪穴住居に住んでいました。村には、収穫した米を蓄えるための高床式倉庫もありました。豪族の住居は、台所、馬屋、主人が住む正殿、従者の住む家など、その役割ごとに建物が違っていました。
 また服装も、一般庶民は古墳時代と変わらない質素なものを着用していましたが、身分の高い人々は色や飾りのついたものを着用し始めました。
 538年に百済(くだら)から仏教が伝わったことが、飛鳥文化に大きな影響を与えたことは冒頭で述べた通りです。百済と高句麗(こうくり)の仏僧達に支えられて中央政府が地方豪族にも寺院の建築を奨励したことから、全国的に華やかな寺院建築が活発化していきました。
 飛鳥寺は、現代の大阪にある四天王寺と並んで、日本における本格的な仏教寺院として最古のものです。「日本書紀」によると、588年に百済から僧と寺工2名、鑢盤(ろばん)博士1名、瓦(かわら)博士4名、画工1名からなる技術者グループがやってきた事が記されており、かの有名な蘇我馬子(そがのうまこ)が、この技術者らを中心として飛鳥寺を建造したと言われています。
 飛鳥寺の伽藍(がらん)は、五重塔を中心として、北に中金堂、塔の東西に東金堂・西金堂が建つ「1塔3金堂式伽藍(いっとうさんこんどうしきがらん) 」です。これら1塔3金堂を回廊が囲み、回廊の南正面に中門がありました。
 講堂は回廊外の北側にあり、四天王寺式伽藍配置では、講堂の左右に回廊が取り付くのに対し、飛鳥寺では仏の空間である回廊内の聖域と、僧の研鑚や生活の場である講堂その他の建物を明確に区切っていたことがうかがわれます。この伽藍の配置は時代によって変化しているため、伽藍の並びを見る事でどの時代につくられたものかを知る事ができます。

建築案件の需要増加により、建築技術者の統治が進む

 寺院建築では高度な建築技術が必要になってきました。すると、古くからの部民(べみん)制では対応できなくなったため、百済や中国大陸の当時日本より優れていた渡来(とらい)系建築技術者が登用されるという変化が見られました。そして、造営、および材木採集、各職工を支配する役所である『木工寮(もくりょう)』がつくられました。
 木工寮は、天皇のために必要な土木建築や木器製作だけではなく、木工の監督機関としての権限も有していたとみられ、宮廷の建築・土木・修理を一手に引き受けていました。具体的には、宮殿の建築や修理、京内の公共施設の修理、木器などの木製品の製作などです。
 また、事業に必要な労働力と資財の調達、予算の立案なども木工寮の業務でした。その仕事は多岐にわたり、非常に忙しかったため、多くの工員と力役者がついていました。
 しかしながら、業務が多岐にわたり中々スムーズにいかず、のちに宮殿関係の業務は新設の「修理職(しゅりしき)」へ、京内の土木工事は新設の「修理坊城使(しゅりぼうじょうし)」にそれぞれ移動されることに。
 その後も、たびたび業務の担当分け、組織変更などが繰り返し行われたとされています。

1間2間…というのは長さの単位ではなく柱の数

 飛鳥時代の尺度は、高麗尺(こまじゃく)(飛鳥尺)と呼ばれるもので、1尺が35.5cm程度と、今より長いものでした。また、尺の上には『間(けん)』という単位があり、現在では1間=6尺と定義されています。しかし当時の1間は6尺ではなく、柱と柱の間の数、つまり柱間のことを意味していたようです。
 この柱間は、西欧においては、建物の中央から端にいくにしたがって狭くしてあります。この方式のほうが、構造上、理にかなったやり方です。なぜなら、柱の端は力が外側に働きやすく、建物が倒壊するのを防ぐ次の柱がないため不安定となるので、最端の柱間を狭くして安定性が高まるからです。
 その中で、日本建築の柱間が均等に保持できていたのは、瓦葺屋根に比べて草葺屋根の重さが小さかったからです。 法隆寺の金堂、中門の柱間は、中央と端とを比べると、大きな差となっています。中国では役所を寺として仮使用したのがきっかけで、寺院建築が宮殿建築を模倣しました。その寺院建築の様式や構造が日本の寺院建築、宮殿建築の様式に応用されました。

建物をいかに長く使うことができるか、というのが重要視されていた

 建築物に釘の使用が初めて確認されたのが、この時代に建立された法隆寺の金堂です。
 当時の釘は鍛造(たんぞう)で作られており、寿命は数百年、いや1000年以上もの長期間、その役目を果たすという、とても耐久性に優れたものです。形は四角い楔(くさび)に似た大きなもので、和釘と呼ばれています。
 ただ、その釘も木組みを締める補助的な目的で建築に使用されており、なるべく釘は使わない方が建物の保存には良いという考えがあったのではないかと思われます。
 また、加工が楽な木材といえば、針葉樹の桧(ひのき)や杉に限られます。当初は、地元周辺での調達が可能でしたが、乱伐の結果、地元調達が困難となり、遠方より調達しなければならなくなりました。伐採して運ぶためには陸の道では中々難しい時代でしたが、桧や杉が水に浮き、水運を利用して運べる利点があったことで可能となりました。
 それ以上に、桧の最大の特徴は、伐採してから300年は強度が増し続けるという他の建設材料では考えられない不思議な特質があるだけでなく、伐採後1000年経ってもまだ伐採時の強度があるという点です。
 また、当時は現在のように間びきや枝打ちなどをすることがなく木の生育環境が悪かったことで、結果的に成長が遅く年輪の目の詰まった良質の桧が育ったことも良かったのでしょう。