中国との交流が再開し、建築物の様式も大陸文化を色濃く反映!

 奈良時代は、710年に元明天皇によって都が平城京に遷されてから、794年の平安京遷都までの84年間を指します。平城京に都が置かれていたことから、平城時代と呼ばれることもあります。とはいえ、途中の740年からトータルで5年間という短い期間ではあるのですが、聖武(しょうむ)天皇が恭仁京(くにきょう)、紫香楽宮(しがらきのみや)、難波京(なにわのみや)へと次々に都を移動していたこともあります。
 平城京は、中国の長安をモデルにしたとされ、政治家や官僚が住民の大半を占める政治都市でした。それまで都としていた藤原京の建っていた場所は、南北に高低差のある傾斜した土地に建てられており、群臣たちが住んでいる場所よりも低く、臣下から見下ろされているような位置関係になってしまい都合が悪かったといわれています。また、地形のせいで水はけが悪いといった現実的な問題も抱えていました。
 さらに、藤原京は唐との交流が途絶えていた時期につくられたこともあり古い書物を参考に設計をしたと考えられており、当時の中国の都城とは比べものになりませんでした。
 遣唐使の粟田真人(あわたのまひと)が帰国して朝政に加わったことで、唐の文化、国力、首都長安の様子などが報告され、この問題が明らかになり遷都をすることになったと考えられています。壮麗な都を建築することによって、外国からの使いや地方の豪族、民衆に対して、天皇のすごさを示そうとしたのです。元明(げんめい)天皇は、みずから平城京が建てられる場所を視察し、造平城京司とよばれる技術者達17名を任命しました。

建築の重要性が増し、造営をつかさどる部署の地位もアップ!

 造平城京司は、平城京遷都のために設置された新たな役職です。本来は、造宮省(ぞうぐうしょう)という宮城の造営と修理をつかさどる造宮卿(ぞうぐうきょう)を長とする部署がありました。造宮省は、大宝律令の制定時に設置された「造宮職」が、「省」に格上げされたものです。その後、伊勢神宮にも使者を派遣して新しい都を造ることを告げ、平城京の建設によって立ち退きを強いられる民家には穀物や布を支給しました。
 工事着工から1年4ヶ月で遷都というきわめて短期間での都の完成を可能にしたのは、寺院をはじめ建物の多くが藤原京からの移築だったことがあげられます。平城京の規模は、藤原京とほぼ変わらない程度、むしろ藤原京のほうが広いとも言われており、中国の都である長安の4分の1にすぎませんでした。平城京に所在する建物は、唐風建築だけでなく、掘立柱で板敷きの高床建築で、屋根は桧皮葺(ひわだぶき)の前時代からの伝統的な建築様式が多くみられました。
 平城宮(内裏)は朱雀大路(すざくおおじ)の北端に位置し、そこに「朱雀門」が設置されました。平城宮は平城京の造営当初から同じ位置に存在しています。朱雀門の北にあった大極殿は、740年の恭仁京遷都の際に取り壊され、745年の平城京遷都後に旧位置の東側に再建されたのです。朱雀大路の南端には羅城門があり、九条大路の南辺には京を取り囲む羅城がありました。ただし、実際には、羅城は羅城門に接続するごく一部分しか築かれなかったのではないかとする説が有力視されています。京内寺院の主なものは、大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺で、四大寺と称します。これらは、藤原京から移転されたものです。東大寺は、東京極大路に接した京域の東外にあり、聖武天皇によって752年に創建され、西大寺は右京の北方に位置し、称徳天皇により765年に創建されました。これに法隆寺を加えて、七大寺と称されます。

日本社会の安定を祈願して作られた『奈良の大仏』だったが、莫大な建築費用が仇となり…。

 東大寺は奈良の大仏で知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ ※仏の名前)を本尊とし、大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔を含む大伽藍が整備されましたが、中世以降、二度の兵火で多くの建物が焼失しています。現存する大仏は、台座などの一部に当初の部分を残すのみで、大仏殿は江戸時代に再建されたものです。創建当時と比べ、間口が3分の2に縮小されています。聖武天皇が当時の日本の六十余か国に建立させたいくつもの国分寺の中心をなす、総国分寺と位置づけられました。
 大仏の鋳造(ちゅうぞう)が始まったのは、747年で、この頃から東大寺という名前が用いられるようになったと思われます。なお、東大寺建設のための役所である造東大寺司も設置されました。聖武天皇は、大仏造立の詔(みことのり=命令)を発した後も、短期間で遷都を繰り返しますが、745年に都が平城京に戻ると、大仏造立を現在の東大寺の地で行うことにしました。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、民衆に強く尊敬され、聖人とあがめられていた僧侶の行基(ぎょうき)を大僧正として迎え、協力を得ることにしました。行基という人物は、常に民衆を助け指導していたといわれており、知識結(ちしきゆい)と呼ばれる新しい形の僧と民の混合宗教集団を形成していました。近畿地方を中心に貧民救済、治水、架橋などの社会事業、今でいうインフラの整備を推進しています。そうして、寺院や道場49院をはじめ、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6ヶ所、布施屋(旅行者の一時救護・宿泊施設)9ヶ所の設立などの偉業を各地で成し遂げました。民衆のために土木工事を指揮し、少しでも生活を良くしようと努めたその姿は今の建設業界にも通じる部分があるのかもしれません。
 東大寺では、大仏創建に力のあった良弁(りょうべん)、聖武天皇、行基、菩提僊那(ぼだいせんな)を「四聖(ししょう)」と呼んでいます。しかし、大仏造立や大仏殿建立のような大規模な建設工事は、国費を浪費させ、国の財政事情を悪化させるという聖武天皇の思惑とはほど遠い現実が待っていました。貴族や寺院にお金が集中し栄える一方で、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、中央集権的な「律令政治」の世の大きな矛盾点を浮き彫りにするのでした。

木材の特性を利用し、実用的な倉庫の建築技術と言われていた校倉造だったが…!?

 東大寺大仏殿に存在する正倉院(しょうそういん)は、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な高床式倉庫で、聖武天皇、光明(こうみょう)皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物です。1997年に国宝に指定され、翌1998年に古都奈良の文化財の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
 建立時期は不明ですが、光明皇后が夫・聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した756年前後ではないかというのが通説になっています。床下には10列×4列の柱を建て、その上に台輪と呼ばれる水平材を置きます。この上に、北倉と南倉は校木(あぜき)という断面が三角形の木材を20段重ねて壁体をつくり、校倉造とします。ただし、中倉のみは校倉造ではなく、柱と柱の間に厚板を落とし込んだ板倉で、構造が異なります。
 校倉の利点として、湿度の高い時には木材が膨張して外部の湿気が入るのを防ぎ、逆に外気が乾燥している時は木材が収縮して材と材の間に隙間ができて風を通すので、倉庫内の環境を一定に保ち、物の保存に役立ったという説がありました。しかし、実際には、重い屋根の荷重がかかる校木が伸縮する余地はなく、この説は現在では否定されています。
 実際、壁面は中から見るとあちこちから外光が透けて見える隙間だらけの状態であり、湿度の管理についていえば、宝物が良い状態で保管されていたのは、多重の箱に収められていたことで湿度の急激な変化が避けられたことによることが大きいのです。 現存する奈良時代の倉庫としてはもっとも規模が大きく、また、奈良時代の正倉のすがたを伝えるただ一つの遺構として、建築史的にもきわめて価値の高いものであることは間違いありません。