造寺・造仏が国営から民営へ、建造者も公務員から民間人に!

 平安時代は、延暦13年(794年)に、桓武天皇が京都の平安京に都を移してから、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指します。平安京が、鎌倉幕府が成立するまで、政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と呼ばれるようになりました。
 平安京では、これまで慣例ではあったものの、失敗からの反省により遷都とともに実行される大寺の移築は認められませんでした。奈良時代には国家が経済的な補償をする「官寺(かんじ)」が多くつくられましたが、平安時代は、東寺(とうじ)と西寺(さいじ)のたった2寺のみで、平安京の南端の羅城門(らじょうもん)を挟んで東西に造営されました。
 そのうえ、まだ今でも寺名が伝わっているのは東寺だけで、西寺は廃寺となりました。奈良時代の朝廷は、造寺、造仏に国をあげて推進してきたのに、平安時代ではそれらの事業から一切手を引いてしまったのです。それだけでなく、元々あった宗教も見放し、新しい宗教の「密教」に全面的に肩入れしたのです。そして、僧たちの政治活動への口出しを排除するため、いわゆる国家公務員だった僧は、その職を解かれてしまいました。官営の造寺司(ぞうじし)もすべて廃止となり、官営の造寺、造仏が行われなくなったので、天皇のお寺という意味の「大寺(だいじ)」という名前も使われなくなりました。
 しかしながら、平安京内に寺を造ることはできなかった一方で、京の外に関しては規制がかけられることはありませんでした。このような時代背景があったため、現在でいう京都の町中ではなく山の中に建てられる山岳寺院が多くなったのですが、それが今の京都人気につながっているのです。しかしながら、当時建てられたものの大多数は、この時代に起こった戦乱によって打ち壊されてしまい、現存していないことが惜しまれます。もし残っていたとしたら、京都はもっとすごい仏教都市になっていたかもしれません。

修復以前の鳳凰堂(2009年)
By 663highland (Own work), GDFL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY 2.5, via Wikimedia Commons

上品で繊細な寝殿造りは自然との調和ができていた

 平安時代の建物の特徴は、奈良時代の華美で重厚な造りとは異なり、上品かつ繊細な様式です。当時の上流階級が住んでいた屋敷は「寝殿(しんでん)造り」と呼ばれ、10円硬貨にも描かれている平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)が有名です。寝殿造りの建物はけっして派手ではありませんが、池や樹木があちこちに配置されて自然との調和が重視されており、当時の貴族たちが過ごした四季折々の優雅な暮らしを連想することができます。屋敷には、1家族だけではなく、複数の貴族の家族が集まり、20~30人くらいで住んでいたといわれています。
 また、寝殿造りはエリア毎に名称が異なっていました。主人が住む主殿を「寝殿」、寝殿の東西両側に作られた、妻子や一族の住居として主に使用される小さめの建物を「対屋(たいのや)」、池に設置された船遊びができる家屋を「釣殿(つりどの)」と呼びます。釣殿は現代でいうところのバルコニーのようなもので、そこで魚釣りや月見を楽しんでいたようです。おそらく、貴族たちの社交場だったのではないでしょうか。

 寝殿造りの建物のもう一つの特徴としては、各部屋が廊下で囲われており、屏風やすだれで部屋と部屋との間が仕切られている、という点があります。今の日本家屋のように完全な個室ではなく、雨風や吹雪を防ぐのは大きく張り出した屋根と、「蔀戸(しとみど)」と呼ばれる腰板が無く、建具を外側に跳ね上げて開く扉程度のものでした。おそらく、遮りがない分パノラマの自然景観を楽しめる一方で、京都の寒い冬を凌ぐのはとても大変だっただろうと推測されます。
 そこで、当時の貴族たちはさまざまな寒さ対策をしていたようです。服は絹を叩いて毛羽立たせてから着込み、早朝から火鉢に火を起こして暖をとっていたそうです。しかし、寝殿造りの建物には基本的に天井はなく、屋根の裏に板を張って構造材などが見えないように綺麗に仕上げる「化粧屋根裏」でした。これにより寝殿造りの天井はとても高く、温かい空気はどんどん上へといってしまって、部屋はなかなか暖まらなかったと言われています。
 ただ、この構造のおかげで空気の循環はとても良かったため、室内で火を使用しても自然に換気されるので、一酸化炭素中毒の心配はほとんどなかったようです。

大陸の影響を受けなくなったことで建築物は日本独自の進化を遂げることができた

 また、寺院建築も、奈良時代の重厚で力強いものに比べ形の優しさと柔らかさに重点を置いた作りになっています。これは、遣唐使(けんとうし)を停止したことにより、海外の直接的影響を受けない、いわゆる鎖国を行ったため、日本独自の風土、趣向を発展させることができたからだと言われています。
 そのような建築様式が花開いたことで、引違戸(ひきちがいど)、蔀戸、舞良戸(まいらど)、格子戸(こうしど)、明り障子など、自然を意識した内部装飾が数多く発明されたのです。特に、引違戸は簡単に取り外しができ、これを取り外すことによって、室内に自然の景色を取り込むことができるようになりました。
 このように、平安時代の仏寺は内部構造に大きなこだわりが見られるのですが、実は躯体(くたい)構造に関しては前時代から大きく変わることはありませんでした。その部分に関しては、あまり興味がなかったからなのでしょう。いかに開放的な建物にするか、ということ、そしていかに平等院鳳凰堂のようにきらびやかな外観にするか、それが最重要事項であったのだと考えられています。
 もう一つ、平安時代の寺院の特徴として、貴族が住んでいた寝殿造りの建物と同じように庭園が作られているところが挙げられます。庭園内には池などがつくられ、極楽浄土の宮殿をイメージしていたと言われています。このような庭園を『浄土式庭園』と呼びます。これが流行した理由は、先述したように浄土信仰が広く信じられるようになったためです。この浄土式庭園を持つ代表的な建物としては、岩手県の毛越寺(もうつうじ)が有名です。あと、忘れてはいけないのが、同じく岩手県にある中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)です。建物全体に金箔が貼られた派手な造りが特徴で、世界遺産にも登録されています。まさに金で栄えた奥州藤原氏の力を象徴する寺院であり、上品・繊細でうたわれる平安時代の寺院としてはもっとも豪華かつきらびやかな建物といえるでしょう。

屋根の上に屋根!?景観重視から生まれた新建築技術とは…

 平安時代の建築物には、内観や外観の上品さや繊細さが求められたため、建築者(職人)は『建てる』技術よりも『工芸』の技術の上達に重きを置いていたと思われます。しかし、技術が奈良時代からまったく進歩していなかったかというと、そうではありません。
 奈良時代までは土間に椅子を置いて座る生活が主でしたが、平安時代になると板張りの床に座る生活に変化していきました。そうなると、人々は落ち着きのある空間を求めて、天井の高さを低くしようと考えます。そこで考え出されたのが「野屋根(のやね)」という建築技術です。これは簡単に言うと、これまで使われてきた中国伝来の緩い勾配の屋根の上に、もうひとつ急勾配の屋根を乗せたものになります。
 そんなに面倒なことをせず、屋根を急勾配にしてしまえばいいじゃないか、と思われるかもしれませんが、当時は太陽光を入れ込まなければ室内が暗くなってしまうので、急勾配の屋根にしてしまうと太陽光を取り入れることができません。また、家の中から外を見る時、どうしても下に突き出した軒が気になってしまい、自然景観を取り入れる寝殿造りにはそぐわないため、このような技法が編み出されたわけです。
 この技術の登場により、それまで多くの人たちが悩まされていた雨漏りを防ぐことができるようになりました。また、従来の屋根には勾配をつける必要がなくなったため、いままで以上に太陽光を取り込めるようになったのです。そして、この時代以降の大規模建築にも大きな影響を与えたと言われています。