国ではなく寺社に属して給与をもらうサラリーマン技術者が主流となる

 これまで宮廷の建築、土木、修理を行っていたのは木工寮(もくりょう)で、その中でも最高指導者が木工大工(こだくみのおおいたくみ)と呼ばれていました。
 現代で言えば、建設局の技師長にあたる高官で、官位も工匠(こうしょう)としては最高の従五位(じゅごい)を与えられていたのです。前半で書いたように、平安時代になると寺社の建立、貴族・豪族の屋敷を建てるといった需要が増えていったことから、朝廷に所属しない血縁を中心とした建築職人の小集団が生まれるようになりました。初めのうちは、所属する寺社から給田を与えられ、そこからの収入が彼らの生活の基盤となっていました。彼らは、朝廷に属さないからといってフリーランスではなかったようです。寺社に属している、いわばサラリーマン技術者ですから、法会(ほうえ)などの行事にも参列していました。その際に席次の都合もあったため、『木工座』という集団を作るようになりました。
 木工座は、次の4階層に分けられます。大工、権大工(引頭)、長(おとな)、連、で、上位者の大工職には世襲も認められていました。大寺社は、それぞれ専属の木工座を持っていて、災害時の建物修理も行っていました。

一つの工事を複数の座で受け持つJV方式がこの時代にもあった?

 実際の建築現場では、現在の建築現場のように重機などがありませんから、多くの職人が一斉に作業をしていたと推測できます。事故が起こらないように、また作業をスムーズに進めるためには、集団を統制する役割が必要ですし、発注元も窓口が一本化されていると仕事がしやすいと考え、現場の最高指導者として大工職を世襲することで固定化していたのではないかと考えられています。
 指導者としての大工という呼称は、しだいに棟梁へと変化していきました。大工職は世襲とはいっても、所属している寺社の意向を無視して勝手な仕事をしていると、免職になることもあったようです。また、後継者があまりにも不器用だった場合も、免職されることがあり、世襲は慣例ではあったものの、技術者としてのスキルが常に求められるのは職人の宿命と言えるでしょう。
 職人の世界というと、ピラミッド状のヒエラルキーを想像しがちですが、寺社に属する木工座は、ひとつの座の中にいくつもの組が存在し、比較的簡単な工事は、交代で仕事を請け負っていました。現場においては、それぞれの職の階層が明確にされていましたが、仕事を請け負っていないときは、手が空いている職人が、他の工事を請け負うこともありました。
大きな仕事の場合は、発注元から請け負った座の下に、孫請けとして他の木工座が加わることもあって、現代の建設業界でもよく見られる、一つの工事を施工する際に複数の建設会社が受注するために組織されるJV(ジョイントベンチャー)方式と同じような構造で行われていたのです。ただ、今と若干異なるのが、そうしたJV方式で行われる現場作業では、同じ木工座だとしても、技術レベルの差によって、大工と権大工の地位が逆転することもあるシビアな面があったようです。

一般庶民はまだまだ竪穴式住居が主流
平安京内の一般家屋も簡素な掘立小屋

 歴史の授業などでは、貴族階級の暮らしぶりばかりがクローズアップされがちで、一般の農民や商人たちがどのような生活をしていたのかは、あまり知られていません。
まず、平安京内の人たちは、一般家屋に住んでいたとされています。平安京の人口は12万人から13万人くらいだろうと推測されていますので、一部の特権階級であった貴族を除いて、そのほとんどが一般家屋に住んでいたと考えられます。平安京内の庶民には、宅地スペースとして一戸主(へぬし)の広さが与えられていました。これを坪数に直すと、約130坪ほどにもなります。ただ、この広さの敷地が1人の庶民に与えられていたわけではないので、もちろん豪邸などは建てられていません。一般家屋専門の職人もいたわけではないので、平地式の簡素な掘建小屋がそこにいくつも建てられていたに過ぎなかったようです。
 平安京の外ではどうだったかというと、なんといまだに約500万人ほどの人々が竪穴式住居に住んでいました。竪穴式住居というと、縄文時代のイメージが強いですが、平安時代でもまだまだ、主に地方の人たちは竪穴式住居で生活をしていたのです。
 また、碁盤の目のように道路が敷かれ、綿密な都市計画のもと当時として最高の技術が集められて作られた平安京でしたが、奈良時代には原始的な水洗トイレが存在していたにもかかわらず、平安京にはありませんでした。路地には、庶民の排泄物が集められている場所があり、貴族たちも樋箱(ひばこ)という、今で言うおまるに相当する木製の箱を利用していたとされています。そのため、上品で繊細な建物が立ち並ぶ外観とは裏腹に、平安京内はとても臭かったと言われています。

優雅な暮らしの貴族とは対照的に
厳しい暮らしを強いられた一般庶民たち

 平安時代の貴族の屋敷には、風呂殿と呼ばれる蒸気風呂があり、専用の密室内に蒸気を充満させてから入ったそうです。そのときにお尻の下に敷いていた布が風呂敷の語源になったといわれています。
しかし貴族たちは、縁起の良い日でなければお風呂に入りませんでした。生活のほとんどが占いによって左右されていて、縁起の悪い日にお風呂に入ると、洗った部分から邪気が入り体調をくずしてしまったり、最悪の場合命を落とすと考えられていたのです。そのため、貴族は体臭がきつく、不潔であったようです。
 平安時代の絵図などで、貴族たちが屋敷でお香を焚いている構図をよく目にしますが、現在のようなアロマ目的ではなく、体臭や糞尿の消臭目的だったのでしょう。
 一方、庶民は入浴をする習慣もなく、蒸し風呂で汗を流し、垢は葉っぱなどを使って落としていたとされています。貴族たちが優雅な文化や暮らしを発展させているかたわら、庶民はなかなかに厳しい生活をしていたようです。食生活にいたっては、は稗(ひえ)や粟(あわ)が中心で、栄養失調になる人が多数いたと考えられています。そのため、平均寿命は30歳くらいだったのではないかとみられています。そういった人々を救済するために、都には「悲田院(ひでんいん)」と呼ばれる孤児・病人・困窮者の収容所や、「施薬院(せやくいん)」と呼ばれる現代の病院のような治療所が公共施設として存在していました。
 また、当時は夜這い文化があり、妊娠をしたら結婚するというようなライフスタイルだったようです。奔放なことに、結婚をするまでは2股、3股をかけることも一般的でした。しかし、その結果夜這いによって妊娠したとしても実際に家庭を持てる庶民は少なく、未婚率が非常に高かったと言われています。つまり、結婚したくても経済的事情からできない人々が多かったのです。とくに男性の未婚率が高く、家族を養っていけるのはそれなりに身分の高い男だけだったそうです。